呉越同舟で

昭和40年6月23日付の朝日新聞は次のように報じている(大要)。

「日本政府の正式認可に先立ち、フォード、モービル両社の技術担当者が今月中旬から21日にかけて三菱重工、日産、東洋工業三社の研究施設などを視察し、共同研究グループの研究目標や過去1年余りの研究成果を説明するなど、準備は順調に進んでいる。

日本側の三社は7月末に米国フィラデルフィアで開かれる同グループの研究発表会に技術代表を送り、研究分担を決めたい意向。

三社とも『排ガス対策の研究分野については"呉越同舟"で協力していきたい』といっている」

この「呉越同舟」は中古トラックまで規制対象になり、結果功を奏しました。

アルミ・カーボン

日本力ーボンの山添部長は語る。

「マツダさんから要求されたアペックスシール用のカーボンの強度の目標は2つありました。

一つは曲げ強度です。

普通のカーボン機械用の場合は、曲げ強度は一平方センチ当たり400キログラム程度でよいのですが、これを2倍以上の1000キログラムにすることでした。

西独シユンク・ウント・エッベ社のアンチモン含浸カーボンの強度は750キログラムくらいでしたから、これよりも大分強度を高めなければなりません。

もう一つは、繰り返し加重試験で、18G(重力の18倍)の状態で十分間耐久できる、というものです。

18Gというのは、大地震の数倍という大変な衝撃の状態です」

これをクリアしたカーボン強度は、ロータリーエンジンを世に送り出すために必要なものでした。

今日トラックや中古車トラックがロータリーエンジンで動くのも、この無謀ともいえる目標をクリアできたからです。

初の対米輸出

現在、日本の自動車の米国向け輸出が伸び過ぎる、というのが日米間の貿易摩擦の大きな問題になっている。

このため1981年(昭和56年)から年間168万台の水準で輸出自主規制をしており、米国自動車業界が立ち直ったため84年は185万台とややふえたものの、自主規制そのものはまだ続きそうだ。

しかし、日本の自動車が初めて米国へ輸出されたのは、戦後も13年たった1958年(昭和33年)で、台数は1ヵ月にわずか500台たらずだった。

当時の模様について、33年5月17日付の朝日新聞は「ダットサン乗用車米国へ初輸出」という見出しで大要次のように報じている。

「日産自動車は、このほど三菱商事および丸紅飯田を通じて、米国の二つの自動車販売会社と、期間1年のダットサン乗用車の輸出契約を結んだ。

第1回分として合計466台を6月から積み出す。年末ごろには月500台の線にいくものと期待している」

「自動車の輸出は、31年ごろからトラック、ジープ型車を中心にふえてきたが、最大の目標は米国に乗用車を輸出することにあり、日産自動車がその一番乗りとなった。

33年秋にロサンゼルスに直営販売店をつくったトヨタ自動車販売も、近く開店の運びである。

米国は33年の輸入見込みは30台(前年の輸入実績は20台)といわれ、日本にとって今後有望な市場だ」

これが日本の初期の輸出です。

今の中古トラックすら輸出できる時代とは大分違います。

日本車が支持される理由

「かなり後の話になりますが、北欧でも同じようなことがありました。

昭和46年ごろですが、フィンランドやノルウェーに日産自動車のチェリーを輸出した時のことです。

初めのうちは北欧の低温のためヒーターがきかず問題を起しましたが、技術陣が直ちに現地の実情によく合った強化ヒーターを製造したため、現地から『チェリーは世界で一番ヒーターがよくきく暖かい車だ』との評判を得ました。

こういうふうに、現地のユーザーの声をよく聞いて、そのニーズに合わせたところに、日本車の輸出がよく伸びた理由の一つがある、と確信します」

現在、自動車だけにとどまらず、多くの商品について、日本の国際競争力が強いのは、日本の商品の値段が相対的に安く、品質がよいからだ。

特に中古車トラックのような車も質がいいのでそれなりの値段が付くのだ。

しかしそれだけではない。

デリバリー(商品引き渡し)の速さ、修繕や部品補給などアフターサービスのよさ、ユーザーのニーズに合わせたキメの細かい配慮、などの非価格競争力の点でも日本の商品は非常に勝れている、といわれる。

このような"伝統"は、日本人の勝れた国民性の一つであり、前述の日産自動車の輸出に見られるように、終戦後、まだ間もない苦難時代のころに多くの人たちによって粘り強く培われたものである。

豊川順弥の発想

国産車の輸出第一号、後の中古トラックの輸出までの足がかりを作った豊川順弥は、明治時代の財界の巨頭だった三菱財閥の豊川良平の長男で、明治19年に生まれ、昭和42年に死去した。

順弥の長男、良一氏所蔵の週刊紙『自動車交通弘報』(昭和33年7月24日付)には、豊川順弥の次のような談話が掲載されている(大要)。

これによって豊川順弥の人柄や、自動車を手がけたいきさつを推察することができよう。

「私は子どもの時から機械類が好きで、大正の初期に自動操縦とか、ジャイロコンパスなどに興味を持った。

ただ、始めは自動車には興味がなく、弟の二郎が初期のモーター雑誌などに自動車の解説を書いているのに反対したほどである。

ところが米国で2年間いる間に、同地で自動車が急増しているのを見て、これは社会的にも非常に大事なものだ、ということに気がついた。

帰国後、自動車は絶対日本でもやらなければならない、と考えて、協力してくれる人を探したが、当時、自動車を造ることに賛成する人は一人もいなかった。

そんな厄介なことをはじめてどうなるんだ、という有様だった」

凄いぞオートモ号!

「大正10年に空冷四気筒の『オートモ号』の第一次試作車が完成、翌11年には第二次改良車ができました。

この年に東京・上野池之端で開かれた平和博覧会の交通館に、この第二次改良車を展示して人気を呼びました。

12年の関東大震災で通信、交通網が壊滅した時に『オートモ号』が大活躍したので、豊川社長は大いに自信を持ち、製品倉庫を機械工場に改造して『オートモ号』の本格的生産に乗り出したのです。

14年4月には東京で『オートモ号』の新車発表会を開き、試乗希望者のためにデモンストレーション・カー2台で宮城前広場の一周コースを回りました。

この年の11月に中国の上海へ初輸出したのです」

「この年の12月には東京・洲崎の埋立地で開かれた第1回自動車レースに参加しました。

出場したのは、アート商会のデムラー、カーチス、ハドソン、フィアット、ルノー、ビュイックなど。

もちろん『オートモ号』以外は外車ばかりです。

ところが最後の無差別レースの決勝で『オートモ号』が堂々二着に入り、観衆をわかせました。

また翌大正15年4月には、大阪-東京間(約662キロ)エンジンノンストップ耐久運行試験レースに参加。

第一位ルノー、二位シボレー、三位は不明で、『オートモ号』は四位に入り、国産の空冷小型車として国際的な称賛をあびました。

このように『オートモ号』は大正末期から昭和にかけて、まだ国産自動車がほとんどない時に、ルノーやシトロエンなどの外車と肩を並べて大いに気を吐いたといえます」

この当時から今の中古車トラックに言われるような「丈夫な日本車」だったのですね。

ある社長の苦悩 その2

A社長も、「このままではいかん。

なんらかの方策を立て、ジリ貧経営から安定経営に転換しなければ……」と、かねてから思案していた保管と配送の一括業務、いわゆる配送センター業務を手がけることを決断したのでした。

その経緯について、A社長は次のように語っています。

「私は東ト協の近代化委員会の委員を務めさせてもらっていたものですから、毎年実施しているコンピュータ経営診断結果に注目していました。

そのデータによると、貸切り専業型の営業利益率は低く、兼業型が相対的に高いのでした。

当社の場合も、運賃は荷主の理解があって毎年、若干ですが値上げしていただいておりましたものの、配車は相手しだいですし、道路混雑もあってトラック中古車回転率が悪いものですから、営業利益率が低かったのでした。

それで、兼業型経営をめざすことを心がけたのでした。

ついで、どんな事業がよいかを考えました。

そしてわが社の業務を見直しながら家電製品の物流経路を追跡すると、家電販売店の製品保管場所が各地に細かく分散しているのでした。

これを一ヵ所に集め、出荷指示に応じて当社でまとめて配送すれぽ、横持ちが大幅に省けることに気づいて、よし流通倉庫を建てようと思い至ったわけです」。

ある社長の苦悩 その1

よく知られているように、荷主側が組んだ配車計画だけに依存していると、季節や月日によって配車台数に変動があります。

また、待ち時間があったりしてトラックの回転も思うようになりません。

したがって稼働率も悪く、収入も安定しません。

このため、A社長は日通輸送事業協同組合にも加盟し、シャープ第二流通センター(野火止)の元請である日通の協力もえて、「なんとかやりくりした」のですが、二回にわたる石油危機後の不況や円高不況による家電需要の低迷もあって、業績は好転しませんでした。

とくに55年以降の不況と60年夏からの円高不況は中古車トラック運送業界に深刻な影響を与・兄ていましたから、貸切り専業の多くは苦境に立たされました。

盛宮自動車の足跡

大正元年、宮古漁業界の菊地さんを主唱者として盛宮自動車が設立され、ただちに3万6千円を投入して、フィアットの客車2台、中古トラック2台を購入し、翌2年には、岩手県の自動屯番号第1から4号をうけて、盛岡・宮占間に16人乗の乗合自動車の運行を開始しました。

大正2年といえば、後に国鉄釜石線になる岩手軽便鉄道が、花巻から遠野を経て仙人峠にまで達した2年前のことです。

東北地方、それも岩手県という土地柄を思うと、これは意外に早いと思います。

中でも、岩手県は、北海道に次ぐ広い面積を擁するものの、ほとんどが人口密度の著しく希薄な山地で覆われた土地です。

今でこそ東京から、東北新幹線で数時間あまりの道のりであるが、当時は文字どおりの"僻地"でした。

トッラクの輸送力と利益

北海道で自動車や中古車トラックがぽちぽち使われ始めた時代、
大規模酪農を支える機動的な輸送力とはいえ、当時のトラックが、開拓農民たちに直接の利便をもたらすなどということはありませんでした。

食糧すら満足に手にはいらず、住民の多くが餓死線上をさまよった冷害凶作の昭和7年に、宮城県から父と一緒に7歳で入植した中標津の人は、次のように回想する。

「入植した当初、周りは一面の原始林でした。

木を切り、馬に引かせて根っこを抜く。

そうしてできたわずかの土地に初年度はソバを植える。

ソバなら、遅くにまいても、2ヶ月もたてば収穫できるからです。

次の年からは燕麦や馬鈴薯を植えます。

だが、作物の売上額など微々たるもので、すべて営農資金に消える。

だから、食べていくための現金収入は冬の出稼ぎか炭焼きで稼ぐ。